2014年、少ない電力で明るく光る青色LED(発光ダイオード)の発明と実用化に貢献した3人の日本人、赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏がノーベル物理学賞を受賞しました。
3人が研究に研究を重ねた青色LEDは蛍光灯の4倍も寿命が長く、消費電力も従来の電球と比較すると10分の1であるため環境に優しいと言われ、現在、街中のイルミネーションや信号機などいろいろな分野で利用されています。
今回ノーベル賞を受賞した3人のうち、赤崎氏と天野氏は教授と教え子の関係にあり、赤崎氏が青色に光るための素材の研究を進め、天野氏が彼の基礎技術を一緒に発展させてきたのですが、青色LEDの完成までには長い道のりがありました。
↑現在、街中で見られるLEDの開発には2人の人物のコンビネーションがあった
そもそも、LEDの歴史は近年始まったものではなく今から100年以上も前に遡ります。始まりは1906年、イギリスの科学者ヘンリー・ジョセフ・ラウンド氏が炭素とケイ素の化合物である「炭化ケイ素」に電流を流すと黄色く光ることを確認したことでした。
1962年にはアメリカの科学者ニック・ホロニアック氏が赤色LEDを発明、その後、黄、橙、黄緑などの各色LEDが誕生しています。そして、白い光を生み出すには光の三原色である赤、青、緑が必要ですから、世界中の科学者たちは青色LEDの研究にのめり込んでいったのです。
↑赤色LEDから始まり、研究者たちは青色LEDの開発を目指す
日本でもその動向は同じでした。1964年、当時勤務していた名古屋大学から松下電器産業が新設する研究所に移ることになった赤崎氏は、その頃、国内には東京大学にしかないといわれていた珍しい実験装置が備えられていたこの研究所で、青色LEDの主要な材料となる「窒化ガリウム」と出会い、青色LEDの開発に明け暮れることになります。
もちろん、世界でも多くの研究者たちが青色LED実現の有力候補である窒化ガリウムの研究に取り組んでいましたが、繊細な窒化ガリウムは扱いにくく非常に困難な研究であったため、多くの研究者が中止したり他の研究に転向していきました。
↑一人、また一人と多くの人が困難な窒化ガリウムの研究から去っていった
赤崎氏も他の研究者たちと同じように失敗を繰り返す毎日で成功の兆しが見えず、社内からは「こんなわけの分からないもの、何の役に立つんだ。早く研究をやめたらどうか」と毎日厳しく詰められ、組織のトップからは「早く研究をやめたらどうか」との命令を受けたと言います。(1)
それでも「好きなことをやる」と心に決めていた赤崎氏の心は変わらず、1981年に辞表を提出すると名古屋大学に戻って研究続行を決意、ついに、当時名古屋大学院生だった天野浩氏と出会うことになるのです。
↑赤崎氏と天野氏が出会い、青色LED実現の可能性が増していく
赤崎氏は自分が「好きなように好きなことを研究したい」という強い思いを持っていたため、“弟子”である天野氏にも自由に研究させようと事細かに指示を出したりせず、ただ、研究の目的や目標を共有し、研究に打ち込める環境を整えてあげるなどのサポートに努めていました。
より細かな研究が必要になれば、赤崎氏は積極的に名古屋大学にはない精度の高い計測装置が揃っていたNTT武蔵野研究開発センターに問い合わせ、インターンシップ制度を利用して天野氏を受け入れてもらうよう依頼、さらに、天野氏が自由に研究できるよう、最後の3日間程度は装置を自由に使っていいという許可までも取り付けたと言います。(2)
↑好きなだけ研究に打ち込めたのは、教授が環境を整えてくれたから
天野氏は自由に与えられた研究の機会を無駄にすることなく研究に没頭するようになり、構内への立ち入りを大学当局から禁じられた元旦以外は研究室に入り実験を重ね、1回に2~3時間はかかる実験を多い時には1日に4~5回行うこともあるなど、実験回数は2年間で1500回以上にも上りました。(3)
そうして赤崎氏のサポートの下で研究を続けていた天野氏は、ついに青色LED開発の突破口を開くことになります。ある日、いつものように実験を始めようとしたところ機械の調子がこの日に限って良くなく、天野氏は独断で機械が不具合のまま実験を続行、結果、この判断が吉と出て青色LEDの開発の成功に結び付いたのです。
↑方法も判断も自由だったからこそ成功に結びつく
もし、赤崎氏からアドバイスや細かい指導を受けながら研究を進めていたとしたらこのような偶然も起こらなかったかもしれず、赤崎氏が天野氏の判断や意志を尊重していたことも成功の要因と言えるでしょう。当時を振り返る天野氏は、赤崎研究室の雰囲気や指導者だった赤崎氏について次のように述べています。(4)
「半年に一回くらいは赤崎先生にきちんとした報告書を提出しなければいけませんでしたが、それ以外は、本当に自由にやらせていただきました。でも、そうかといって僕たちが赤崎先生の研究方針を逸脱していたかというとそうではなく、長い目でみると全くといっていいほど一致していたんです。(中略)それはもう、ぴったり合っていました。だからこそ、僕がやっていた実験に細かく口をはさまず、温かく見守っていただけたんだろうと思います。」
↑そこに指導者の姿は無くても、研究に集中できるように環境を整えてくれている
職場では、部下をある程度「放置」して自由に働かせる上司の下で働く人は、毎回事細かな指示を出す上司の下で働く人に比べて成長しやすいとされていて、さらに、進捗状況の確認も頻繁に行うのではなく、一つの仕事に対し中間報告と完了報告などのように、たまに行うくらいがちょうどいいのだそうです。
赤崎氏も学生に自由に研究をさせながら「半年に一回くらいはきちんとした報告書を提出しなければならなかった」と言いますから、赤崎氏は部下を成長させることのできる上司であったことは明らかでしょう。
赤崎氏と天野氏の二人三脚で青色LEDが実現したことからも分かるように、放置主義の上司とその下で自由に働く部下の組み合わせは、目標を実現する可能性の高いコンビネーションとなり得るのです。
↑余計な口出しはせず見守るだけ、これが成功の秘訣
窒化ガリウムの研究が成功すれば青色LEDの開発も成功する、この共通の思いが赤崎氏と天野氏の中には存在していていたからこそ、赤崎氏は天野氏に細かい口出しはしないものの徹底して研究がはかどるような環境を作ることに集中し、天野氏は赤崎氏の一連のサポートを無駄にすることなく、毎日思う存分研究に打ち込んできました。
赤崎氏の父親は寡黙で細かいことを言わない人だったそうで、子供たちにはつねに「自分の好きなことをやればよい」が口癖だったと言います。こうした父親の影響もあって、赤崎氏の中には常に「自由に研究して欲しい」という思いがあったのかもしれません。(5)
↑自由に行動しつつも、「青色LEDの開発を必ず成功させる」という共通の思いが存在していた
上司の立場になると、「自分が指示を出して部下を動かさなければならない」と責任を感じて意気込んでしまう人も多くいるかと思いますが、実は、事細かに口出しをせず見守っている方が部下にとっては良い環境であり、自由に考える機会が与えられることで新しいアイデアが生まれるなどのメリットがあります。
ただ一つ、目指す方向さえ明確になっていれば、たとえリーダーから細かい指示やアドバイスがなくとも、部下は自ら自由な方法で目標に向かって考え行動することができ、この自由な発想や行動から生まれるアイデアが問題解決の糸口に結びつき、青色LEDのような革命的な発明に繋がるのです。
もしかすると、プロジェクトを円滑に進めようとして、私たちが普段何気なく行っている多くの打ち合わせは、本来まったく必要ないものなのかもしれません。
1. 中嶋彰 「『青色』に挑んだ男たち―中村修二と異端の研究者列伝―」 (2003年、日本経済新聞社) p60
2. 赤崎勇 「青い光に魅せられて 青色LED開発物語」 (2014年、日本経済新聞出版社) p169
3. 中嶋彰 「『青色』に挑んだ男たち―中村修二と異端の研究者列伝―」 (2003年、日本経済新聞社) p71
4. 中嶋彰 「『青色』に挑んだ男たち―中村修二と異端の研究者列伝―」 (2003年、日本経済新聞社) p93
5. 赤崎勇 「青い光に魅せられて 青色LED開発物語」 (2014年、日本経済新聞出版社) p28
1 Comment
青色LEDを実現したのは赤崎氏と天野氏ではありません。赤崎氏は窒化ガリウムの高品質結晶創製技術を発明し、PN接合が可能だと証明しました。世界に先駆けて高輝度青色LEDを発明したのは中村修二氏です。ノーベル賞発表時、日本では文部科学省、産学官、メディアが一体となって、赤崎氏と天野氏が青色LEDを開発、実現。中村氏はその量産化、製品化をしたと おめでとうコメントを出しました。その後、中村氏が訂正を要求して、平成28年版科学技術白書でやっと3人の真実の功績がが記載されました。
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2016/05/26/1371168_001_1.pdf p20と26に記載されています。
まだまだ日本国内では間違った認識を持っておられる方が大勢います。
それは、赤崎氏と天野氏が、随分以前から、自分たちが高輝度青色LEDを発明し、中村氏が自分たちの発明を発展させて量産化、製品をしたと講演等で話されていたからです。
2015年、東海大学で赤崎氏、天野氏、中村氏が揃って講演をしました。
中村氏がお二人を前にして講演している内容が、真実を語っています。