明治維新から20年が過ぎようとしていた頃、日本の生活水準は想像以上に貧しく、明日の生活もままならない人が多くいたため、日本政府はちょうど同じ頃好景気に沸いていたカナダ、バンクーバーへの移民奨励策をとることにしました。
1900年代初頭、お金さえ稼げれば仕事の内容や働く場所などにはこだわらないと新天地を夢見てカナダを目指した多くの日本人を待っていた現実は、張りぼてのような住居、衛生的とは言えない環境、そして人権というものがないに等しい日系人に対する白人からの扱いという、日本での暮らしよりも過酷な生活だったのです。
↑想像とはるかにかけ離れていた夢の新天地
日系人は、弁護士や薬剤師を含む多くの専門職に就くことは出来ず、また、英語を話すことができないこともあり、漁業、製材所や炭鉱などの過酷な肉体労働以外の仕事からは締め出されていました。(1)
明らかな差別は職場でも待ち受けており、カナダ人労働者が仕事中にサボっていても何の注意も受けない中、日系人は一言でも言葉を発するだけで「なまけもの」や「ジャップ(差別用語)」と罵られた上、給料は仕事をサボるカナダ人労働者の半分程度しか付与されないという過酷な環境だったと言います。
↑どれだけ懸命に働いても生活は一向に楽にはならない
そんな絶望的な日系人たちの唯一の希望が野球にありました。野球はカナダに渡った日本人の子供である2世の間に広まっていき、野球の練習がある日は就業時間になると野球ができる喜びにそわそわし始めるほど、ささやかな楽しみや息抜きの時間となっていたのです。
当時、アメリカからカナダへ流れ込んできた野球は日系人とバンクーバーの一般市民から幅広くファンを集めていて、カナダの人気スポーツであるアイスホッケー以上の人気スポーツになっており、若き日系人たちはカナダ人チームに挑むため、日系人チームを組むことを夢見るようになりました。
↑普段の生活がどんなに苦しくとも、夢を見ることは諦めない
そして1914年、ついに日本人街に野球チーム「朝日」が結成されます。当然、体格では白人に日本人が勝ることはなく、カナダ人チーム相手に負け続け万年リーグ最下位でしたが、どんなに朝日が弱小チームであっても野球の試合はカナダ人と同じ土俵で戦える唯一の場所として、日系人たちの希望になっていったのです。
あるとき、勝つことを諦めなかった朝日は、相手チームの白人たちが大柄で動きが鈍そうなことから、キャプテンが思いついた“セーフティバントと盗塁の組み合わせ”という戦法で念願だった初得点を取ることに成功すると、朝日はこの方法を多用するプレースタイルを確立して得点を重ねるようになります。
カナダ人の倍働いても賃金は半分程度、日系人という理由だけで奨学金も受け取ることができないということもありました。しかし、そんな理不尽な差別を受け、悔しい気持ちを抱えながらも、ズルなしのフェアなプレーで勝利を目指す朝日のメンバーたちの思いは、いつしか日系人の希望のみならず誇りとなっていったのです。(2)
↑弱小チーム朝日の点数獲得は日系人すべての人々の自信につながる
徐々にカナダ人側からも注目されるようになった朝日のこの戦法は、「頭脳野球」や「サムライ野球」と呼ばれるようになります。
街中で「昨日のプレーは良かったよ」と話しかけるカナダ人も現れるなど、白人社会からも賞賛と人気を勝ち取ることに繋がっていき、試合でもカナダ人の審判が自国のチームを勝たせようと朝日に不利な判断を下すことが見られるようになりましが、「フェアな判断をしろ」とカナダ人応援団からもアンフェアな審判に対しブーイングが飛ばされるようになったのです。
↑チーム朝日のフェアな精神で闘う姿はカナダ人をも魅了した
チーム結成から5年後の1919年、朝日はバンクーバー・インターナショナル・リーグ・チャンピオンシップを獲得、その後も、得意の「頭脳野球」を駆使しながら市のタイトルを10回勝ち取るなど、朝日はバンクーバー・リーグのリーダーとなるまでに成長し、その当時最も人気のあるチームとなりました。もしこの時、朝日の中に一人でもフェアに反するプレーをするメンバーがいたとしたら、カナダ人たちから支持されることはなく、人気を獲得することもなかったでしょう。
日常ではどんなに理不尽な対応を受けていても、勝負には真っ向からフェアな姿勢で立ち向かうことを頑なに守り続けた朝日メンバーの一人一人の思いが日系人コミュニティーのみならずカナダ人たちの心をも動かし、日系人全体の地位を守ることに繋がったのです。
↑「フェア」であることを守り続けたチーム朝日が手に入れたのは、勝利だけでなく相手側からの承認
このような日系人に対する人種差別を含め、日本は過去、あらゆる差別や不平等と闘ってきた歴史を持っていて、その一つに不平等なレート換算というものがあります。
鎖国から開国に至ることになった日本がアメリカ政府の圧力に屈し、1858年に日米修好通商条約を締結すると、日本の小判3両は外国の銀貨4枚に相当すると決められたのですが、実は、3両の小判には金が約15グラム含まれている一方で、4枚の銀貨には金がたったの6グラムしか含まれていないことが発覚、2倍以上も不平等な交換比率だったのです。
この不平等なレート換算をアメリカ政府に訴えようと、小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)という一人の人物を中心とした日本政府団が立ち上がりました。
↑銀で金を得るような不平等な交換比率
すべてのものを正確且つ均等に作り上げてきた日本では、小判1枚についても重量や金の含有量は均等に作られていましたから、小栗上野介たちはその正確さを踏まえ、アメリカ政府の目の前で天秤とそろばんを出し、小判に含まれる金やその他の金属の含有量を分析し始めるなどして、短時間で銀や銅も絡んだ複雑な計算を終え、正確な小判の価値をアメリカ政府に提示したのです。
論理的な説明で複雑な計算を素早くこなす日本人に、アメリカ側は驚きを隠せなかったのでしょう。アメリカには、日本政府団のリーダーである小栗上野助について次のような記録が残されています。(3)
「小柄だが、生き生きした、表情豊かな紳士である。威厳と知性と信念と、そして情愛の深さとが、不思議に混ざり合っているのである。」
それまでアメリカ政府は交換比率が不平等であることは全く認めておらず鼻であしらうような態度でしたが、小栗上野助をはじめとする役人たちの非の打ち所のないパフォーマンスや、アメリカを批判するのではなく、あくまで小判の正確な価値を導き出そうとする姿を前にして、アメリカ側は不平等という事実だけではなく、日本政府の人たちを認めるようにもなったのです。
↑日本の役人たちが目指したのはアメリカを責めることではなく、硬貨の正確な価値を導き出すこと
日系人野球チーム朝日は、1941年12月7日(日本時間8日未明)の真珠湾攻撃により、アメリカと協力関係にあったカナダにおいて日本人は敵性外国人と見なされ強制収容所へ収監されたために解散することになりましたが、それから約60年経った2002年、トロントで行われたトロント・ブルージェイズとシアトル・マリナーズの始球式に、元チーム朝日の5人の選手が招かれ、臨席していたイチロー選手や佐々木主浩選手などを含む大勢の選手と観客から称賛を受けました。
2003年には、カナダの移民社会と野球文化への功績が認められ、日系人野球チーム朝日はカナダ野球殿堂入りを果たし、朝日メンバーの一人、ケイ上西氏はカナダ野球殿堂入りについて次のように述べています。(4)
「それはもう、大変な名誉ですから。カナダ野球殿堂だなんて。なんと言ったら良いのやら。僕らはアマチュアですからねぇ、それが殿堂入りだなんて。本当に有難いことです。」
↑チーム誕生から89年後、チーム朝日が野球界から認められる日が訪れた
朝日のようにメンバーの一人一人がフェアな姿勢で勝負に挑めば、勝利が必ず得られるとは限りませんし、何度も優勝を経験できたのは運が良かっただけと捉える人もいるかもしれません。
しかし、ここで確実に言えることは、どれだけ逆風にさらされていてもメンバー全員が「フェア」の精神を忘れず立ち向かい続ければ、チーム朝日のように仲間の希望の光となり、敵対する相手からも認められるということなのです。
1. 後藤紀夫 「伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語」 (2010年、岩波書店) p8
2. 西山繭子 「バンクーバーの朝日」 (2014年、マガジンハウス文庫) Kindle 1680
3. 佐藤雅美 「覚悟の人 小栗上野介忠順伝」 (2007年、岩波書店) p113
4. 後藤紀夫 「伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語」 (2010年、岩波書店) p218
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